本田 宗一郎(実業家)
本田 宗一郎(ほんだ・そういちろう) 実業家 1906年11月17日~1991年8日5日
磐田郡光明村(現天竜市)の生まれ。正真正銘のいたずら小僧で、裏山のスイカに穴を開けて中身だけ食べてしまったり、正午の鐘を勝手についてお昼ご飯にありついたり、といったことをしていました。
1914年ごろ、「村に自動車が来る」という話を聞きつけた彼は飛んで行き、その圧倒的な存在感・音・匂いにすっかり魅了され、「いつか自動車を作ってみたい」という夢を胸に抱きます。
15歳で上京。自動車修理工の見習としてアート商会に入社。6年の間、修理に関してだけでなく、顧客への接し方、誠意を学びました。22歳の時、浜松にてアート商会浜松支店を開業して独立。しかし修理業に飽き足らず、当時まだ日本でほとんど作られていなかったピストンリングの製造に着手、アート商会はあっさり譲り渡して、東海精機工業株式会社を設立します。
戦後その東海精機も退職した彼は、1946年、東海精機の跡地に50坪ほどの小さい工場を建てました。これが「本田技術研究所」です。
その後、補助エンジン付自転車を開発。昼夜を問わず研究を続け、5年後には日本一のオートバイメーカーに。四輪の研究も進め、1962年、鈴鹿サーキットでのお披露目会で自らスポーツカーのハンドルを握りました。この時55歳。夢が叶った瞬間でした。
彼の夢は戦後日本の夢であり、ひたすら前を見て突き進む姿は、戦後日本人の姿そのものだったかもしれません。
【関連サイト】
⇒ 本田宗一郎氏が創業した本田技研工業株式会社
⇒ 本田宗一郎氏が設立した本田財団
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