今川義元の名参謀「太原雪斎」ってどんな人?
NHK大河ドラマ「天地人」の主人公「直江兼続」は、忠義や慈悲の人として評判ですが、徳川家康を怒らせて会津に注目させた書面「直江状」や、敵方にも賞賛された戦の駆け引きなど、智謀の人でもありました。
このように戦国時代では、織田信長の懐刀羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)や、「陰険な策謀家」とも呼ばれた徳川家康の参謀、本多正信など有名大名には決まって頭のキレる「参謀」的人物がそばに控えていました。
戦国時代、駿遠一帯を統治していた今川氏でも稀代の名参謀がいました。その名は「太原雪斎」と言います。
藤枝市にある長慶寺には、駿河今川氏の3代目、今川泰範と
太原雪斎のお墓があります。
雪斎は今川氏の跡継ぎ争い「花倉の乱」にて、義元とともに義元の兄「玄広恵探」と、その協力者である「福島正成」を討ち破って義元に今川氏を継がせました。この功績により雪斎は義元に重用されることになります。
その後雪斎の活躍はめざましいものがあり、当時三河を支配していた織田家を追い払うことで、三河を実質的に支配。また、今川氏・武田氏・北条氏の3国による「三国同盟」を成立させ、東の憂いを取り除きました。
一方、内政面では今川氏の分国法である今川仮名目録を改変・追加したほか、臨済宗を中心とした領内における寺社・宗教の統制や、在来商人を保護する商業政策なども行ない、今川氏の最盛期に大きく貢献しました。
駿府・臨済寺(臨済寺については別のコラムで参照)の住持として宗教的な影響力を持ちながら、今川氏の「執政」・「軍師」とも呼ばれ、政治・軍事・外交に秀でた手腕で義元を補佐した太原雪斎。その死去は1555年と記されています。
死後から5年、桶狭間にて今川義元が討ち取られてしまい、今川氏は衰退していきます。
このことにより、「今川氏の衰退は雪斎の死によって始まった」等と評する文献も多く、それだけ雪斎が有能な人物ということを物語っているようですね。
こちらが太原雪斎のお墓。晩年、ここで隠居生活をしていたとされています。
(by 静岡星人)
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