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2011年2月14日 (月)

斯波氏・今川氏・徳川氏・・・出世城「浜松城」になる前の歴史

ジモティック・コラム

江戸幕府の開祖、徳川家康の青年期における本拠地であった浜松城は、「出世城」として有名なお城です。

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4月になると、桜が天守閣を覆います。

出世城のエピソードは徳川家康だけではなく、天保の改革の主導者、水野忠邦ら歴代の老中、大阪城代など浜松城主から幕府の重役へと出世した例も多く、「はま松は、出世城なり、初松魚」(松島十湖)という句も残されているほどの出世城っぷりを発揮しているお城なのです

そんな名誉ある浜松城が「出世城」に至るまでの歴史をちょいとご紹介しましょう。

浜松城のあった場所には、「曳馬城(引馬城)」と呼ばれるお城があり、徳川家康の妻でもあった瀬名姫の先祖である今川貞相が築城したお城と伝えられています。
応仁の乱が終わったある日、遠江一帯を支配していた斯波氏と、駿河を中心とした今川氏との間で抗争が勃発。当時この地を支配していた大河内氏は、斯波氏に味方するものの、今川氏に敗れ、領地を奪われてしまいます
その後、今川氏親の配下・飯尾氏がこの地を支配し、しばらくは飯尾氏によって統治されます。

さらに時代が進み、今川家当主、今川義元が桶狭間にて織田信長の奇襲に遭い、討ち死という有名な「桶狭間の合戦」が起こります。
当主を失った今川氏は、急速に衰退。遠江・三河地域を統治することが出来なくなりました。

今川氏の衰退しているさなか、当時の曳馬城城主・飯尾連竜が今川家当主・今川氏真に反旗を翻しました。しかし、連竜は計略により謀殺。以後曳馬城は、飯尾氏の残党によって守られるようになります

城主を謀殺された城内では、すでに徳川派と武田派に分裂しており、その混乱を見抜いた徳川家康によって曳馬城は陥落。その後徳川家康によって曳馬城は大幅に改修され、以後「浜松城」として明治維新まで名を残すことになりました

と、出世城になる前のエピソードを大まかに説明するとこんな感じでしょうか。
現在浜松城天守閣は徳川家康の生い立ちや、浜松城歴代城主、当時の浜松の様子などを残す歴史資料館となっています
春には天守閣を囲うように桜が咲き乱れ、桜の鑑賞スポットとして多くの人に親しまれています。
悠久の歴史の息吹を感じるために、浜松城公園に訪れてみてはいかがでしょうか

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浜松城内に展示されている鉄砲。

■浜松城公園
浜松市中区元城町100-2
053-473-1829
ホームページはコチラ

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(by 静岡星人)情報提供元:a・un

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